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切通理作
2010.7.28 10:46

死刑なのだ

             一年ぶりに死刑が執行されて話題になっていますね。
   奇しくも、出たばかりで早くも増刷になった『修身論』で小林よしのりさんは、「わしは死刑は廃止してはいかんと思っている」と言い切っています。
   私も、この意見に全面的に同意します。

  いま、死刑廃止は世界的な趨勢になっているという人もいます。一方、仮釈放なき無期懲役、つまり「絶対的終身刑」を求める声も大きくなっています。裁判員制度が定着すると、ますますその傾向に拍車がかかるといわれています。
   
  死刑判決を出すのは寝覚めが悪い。しかし大過なく務めあげれば数年で娑婆に出られる無期懲役では、被害者遺族の無念な気持ちと吊り合いが取れない。だったら「絶対的終身刑」の枠に放り込んでしまえばいい・・・・・・しかしこれでは、判断停止状態といえるのではないでしょうか。

  沖縄の問題を日本の問題と捉えず「大国と地域感情の板挟み」としか捉えられないことと、死刑の問題を被害者側の応報感情の中だけで捉えるのは似た構図である気がします。

  問題は我々の社会が、極限状況での生死の選択に対してどう受け止めるのかということなのであり、「絶対的終身刑」はその問題を、それ自体隠蔽してしまうことにつながりかねません。死の臭いのないソフトな管理社会が到来しようとしているのかもしれません。

  人間の命がなによりまして大切だという社会の中でも、いやそれだからなお、殺人事件は起こり続けるのではないでしょうか。ソフトな社会の中で、理不尽な死は呼びこまれ続けるのです。

 「『なんとなく不安だ』と感じるのは、このような死を忘却した不気味な世界に人間が暮らしているからである」という小林さんの指摘(『真の不安、偽りの不安』)は、そのことを言っているように思えてなりません。

  光市母子殺人事件の被害者遺族である本村洋さんは、アメリカで死刑囚に会いに行ったとき、死刑を前に敬虔な態度で臨む彼に感動したと、著書『罪と罰』で発言しています。
  
  生き延びようとする者の「反省の弁」と、確定した死を前にした者の懺悔の態度とでは、眼光や振る舞い自体まるで違うという本村さんの直観は、おそらく正しいと僕は思います。

  小林さんのいうように、死を前にするからこそ、人は命を越える価値を知り、敬虔な気持ちになります。
  生き延びようとする者の「心からの反省の弁」など、推し量りようがありません。光市の母子殺人事件の場合も、犯人の元少年が、死を前に観念して己の罪を悔いる時が来たら、彼の懺悔の言葉を自分は聴くつもりがあると、本村さんは言います。

  「人間は『命の大切さ』を意識しても、良心を呼び起こせない。むしろ人間の不安の源泉である『死の断絶の可能性』に直面したときこそ、倫理の扉は開くのである」という小林さんの言葉は、死刑制度を考える上でも有効であると、私は思います。

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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